山梨大学工学部

卒業生・修了生

工学部の思い出

E.S.

イー.エス.

 武田通りは微妙な上り坂。その坂を自転車で登る。もちろん汗だく。

 毎年夏になると甲府を思い出す。甲府が酷暑のニュースで常連扱いだからである。
酷暑のなか、動かざること山のごとしの信玄公像のアップ映像。それを見るたびに、
「うん、知ってる。暑いの知ってる。」と無言でテレビに頷きながら、あの汗だくの武田通りを思い出すのだ。

 甲府盆地。ご存知の通り夏は酷暑、冬は底冷え。そんな土地で過ごした私の4年間は、入試からスタートする。

 入試。初めての甲府に母は同行してくれた。電車もホテルも母が手配してくれた。今思えば、入試に集中できるよう、母は取り計らってくれたのだろう。

 前日の夜は緊張でよく眠れなかったが、同行した母に見送られ工学部で試験を受けた。試験中の記憶は全くないが、試験を無事に終える。ようやく解放された気分で甲府駅で母と合流。自宅へ帰るべく、「かいじ」に乗り込んだ私は母に聞く。
「入試の間、どこで時間をつぶしていたの。」
と。頬を真っ赤に染めた母は言う。
「ワイナリーで時間を潰していた。」
その母の頬を、その赤を、私は一生忘れないと心に誓った。

 大学生活。そして一人暮らし。自分を知っている人が、この甲府の地にいないという不安から、焦ってガイダンス終わりの初対面状態のクラスメイトに勇気を出して声をかける。
「信玄公まつりいってみない?」
今思えば、なかなか強引な誘いである。若干引いた様子のクラスメイトは快くOKしてくれ、甲府での友人第一号となってくれた。その後、高校の元クラスメイトとも奇跡の再会を果たした。高校時代同じクラスに在籍して、大学に入学するまで同じ進学先だと私だけが知らなかったという事実に、私はいまだに納得はしていない。納得はしていないが、得難い同郷の友人は、とてもとても心強かった。

 友人宅で集まって試験勉強もした。しかし、友人宅は誘惑も多かった。翌日に試験を控えて、胸に七つの傷を持つ(おとこ)の物語に夢中になっていた友人がいた。後日、散々な試験結果だった友人を見て、友人宅でテスト勉強はするまいと誓った。

 大雪が降ったら真夜中に集まって夜の雪遊びもした。徹夜でゲームをして、そのままバイトにも行った。皆で集まって鍋も食べた。

 卒業論文。4年生になり、ゼミ担当の先生が笑顔とともに放ったひとことに戦慄する。
「結果が出なかったら、卒業させないよ。」
笑顔が怖いと思ったのは初めてだった。しかし、至極当たり前の発言である。先生をはじめ、先輩方は貴重な時間を削って私たちのサポートをしてくださった。

 どうにかこうにか書き上げた卒論を研究室のみんなで提出しにいった。後日、
「よく書けていましたね。」
の一言と先生の笑顔。
 先生の笑顔はもう怖くはなかった。

 酷暑であり、底冷えする甲府での大学生活は、かけがえのない友人と賑やかな思い出を与えてくれた。これからも毎年、夏になると酷暑のニュースで、たまに冬は大雪のニュースでそんな大学生活を思い起こすのだろう。

 山梨大学工学部100周年、おめでとうございます。雄大な富士山と、酷暑でも汗ひとつかかない信玄公のお膝元でこれからも益々の発展をお祈り申し上げます。

2003年工学部コンピュータ・メディア工学科卒業