山梨大学工学部

教職員

山梨大学工学部と共に過ごした38年

小谷 信司

コタニ シンジ

山梨大学工学部100周年、誠におめでとうございます。
私は学生時代の6年間、企業を辞めてから現在に至るまでの32年間の合計38年間、山梨大学工学部と共に過ごしてきました。
 入試区分は二次募集であったため、山梨大学を訪れることなく入学しました。初めての一人暮らしで戸惑うことが数多くありました。アパートはトイレが共同、お風呂は大家さんの家を借りるものでした。自炊も初めてのことが連続でした。それでもワンダーフォーゲル部に入ることで、多くの素晴らしい友人に巡り合い、有意義な学生生活を過ごすことができました。山登りとスキーに熱中して、講義はあまり出席しない不真面目な学生でした。そのため、研究室配属では優先順位が下のグループであり、希望の研究室に入れず、心ならず、ロボットと画像処理の森研究室に配属されました。
 森研究室に入ると、未知の分野であった研究が面白くなり、修士課程に進学することを決めました。ただし、学部時代の成績が悪く、推薦がもらえなかったため、試験を受けなければなりませんでした。ドイツ語も含め、数学、専門科目の猛勉強を行って、なんとか合格にたどり着きました。
 森研究室では、石黒浩氏(現在:大阪大学・栄誉教授)、安富敏氏(現在:民間企業・博士(工学))と知能移動ロボットの研究を行いました。同期には、鈴木良弥氏(現在:山梨大学工学部・教授)、渡辺喜道氏(現在:山梨大学工学部・教授)がいます。
 当時の山梨大学工学部には博士課程がありませんでした。石黒浩氏は非常に優秀であったため、大阪大学の博士課程に進学しました。私は、東京の実家から通うことができる横河電機株式会社に就職しました。横河電機の仕事はとても面白かったのですが就職して3年半ほど経過したころ、指導教員であった森先生から電話があり、「山梨大学に戻って来ないか?」のお誘いを受けました。この判断には迷いましたが、会社を辞めて、山梨大学工学部にお世話になることに決めました。
 山梨大学で助手として採用されましたが、私は博士号の学位を持っていなかったので、学位取得までの長い道のりがありました。論文を書き続けなければいけないプレッシャーに押しつぶされ、あきらめかけたこともありました。筑波大学から無事、論文博士号をいただき、その翌年、山梨大学工学部助教授になりました。
 教授になった後、山梨工業会(工学部の同窓会組織)の学内理事に就任しました。総会や支部総会に参加すると、先輩達の強い母校愛に驚きました。私はあと4年、工学部の学生への教育を担当し、学生と共に研究に励みます。定年退職後は山梨工業会の卒業生の一人という立場から、山梨大学工学部の学生の応援を行っていきたいと考えています。 山梨大学工学部の学生を取り巻く環境は劇的に変化しています。それでも、山梨工業会と山梨大学工学部の学生が協力し合い、その変化に立ち向かっていくことができると信じています。山梨大学工学部100周年を祝うとともに、次の100年も素晴らしい魅力的な山梨大学工学部であることを願っています。

1986年工学部計算機科学科卒業、1988年大学院修士課程修了

山梨大学大学院総合研究部工学域機械工学系  教授