スナダ ケンゴ
筆者は1969年(昭和44年)に工学部(土木工学科)卒業、71年に工学研究科修士課程修了後、すぐに山梨大学に勤務することになった。以後、途中に東工大、アリゾナ大(米)での勤務・滞在を除いて2012年まで40年を越えて山梨大学教員をさせていただいた。これまでに多くの教員、先輩、同僚、学生に恵まれ、在任中には“21世紀COE”、“グローバルCOE”などの大型の教育プログラム、研究プロジェクトにも関係する機会も得てきた。工学部創立100周年記念としては、教育研究面での回顧、将来に向けた学術・技術の展望についても想いを巡らせるべきであろうが、ここではそれらには触れない。むしろ、新たな時代を切り拓く「現代の若者たち」への参考になるかもしれない、「過去の若者たちのようす」のほんの一端を紹介し、何がしかの余話になればと思う。
山梨大学には昭和40年(1965年)土木工学科に入学した。翌年度には戦後のベビーブーム・受験戦争への文部省の対応方針に呼応して学科定員60名となるが、その前年にあたる最後の定員30名の年であった。小人数(31名)だったこともあり、他学科も同様と思われるが、入学直後からまとまりの良いクラスとなっていた。当時は入学年度西暦末尾の65と土木工学科(Civil Engineering)から“5C”クラスと称して、カリキュラムや講義室の割り当てが行われ、科目によっては、他クラス(例えば5S(精密機械))と合同の講義が行われていた。入学直後にマイスター教員(学生への助言教員)になっていただいた荻原能男先生から「土木学会」を紹介された。すぐに、同級生数人と一緒に学生会員として入会し、1年生ながら学術団体への加入に密かな高揚感を持ったことを思い出す。
講義の行われる建物・校舎の中には、木造で平屋建てもあった。当然ながら教室にはエアコンなどはなく、夏は酷暑に、冬には各教室のだるまストーブの石炭燃料切れも常態化して寒さに閉口した。自宅も下宿・アパートも同様な状況だったので、取り立てて苦情も出されることはなかった。当時は、もちろん個別には電話もテレビもなく、多くの情報は携帯ラジオ、図書館の新聞、学食(生協食堂)のテレビ、同僚との接触・対話から得られていた。当然、対面での交流が主で、大学行事やクラブ活動を通じて、上級生~下級生との関係もより緊密だった。特に同級生の繋がりはより強いものとなっていた。学部生の中には、大学紛争として全国の学生と共に運動に参加する者もいたが、同級生間では相互信頼による冷静な議論の場も持たれていた。
5C同級生は、他学科生と同じように全国から集まっていて、言葉使いの違いを笑い合い、浪人経験や志望学科の転向による者など、さまざまな経過を背景に持ちながら、静かに、そして果敢に国土建設への夢を追いかけていた(と思う)。それぞれに、独特の個性を持ちながらも、自然な協調性が備えられていて、まとまりの中で一体感が極まっていった。
就職・進学先が具体的に決まった4年生の秋に “伊豆への卒業旅行(鉄道~バスの貧乏旅行)”が学生仲間で自主的に計画された。当時の「補導主任教授(生活・就職担当)」の了解を取り付け、各学生父兄への連絡・経費協力支援の依頼文も出したりした。ほぼ全員の参加による2泊3日の若者の伊豆旅行、どれほど賑やかなものであったかは想像にお任せする。同級生の集まりは、卒業時には「甲土会(こうどかい)」と名付けられ、現在に至っても隔年に一回程度の頻度で旧交を温めている。 筆者自身は、卒業、修了後には山梨大の教員として勤務してきたが、研究指導面からも、多様な経歴や背景を持つ人の学識、心情、自由な発想の交換の意義深さを認識している。懐古に浸るわけではない。オンライン、バーチャル空間での意見交換・発想も必要だが、同時に、可能な限り生身の人間同士が顔を突き合わせ、息遣いを感じ、同じ季節のにおいを嗅ぎ、時には、学生ながらの清貧感さえも共有できるような場が造られることを期待している。
1969年工学部土木工学科卒業、1971年大学院修士課程修了
山梨大学名誉教授