山梨大学工学部創立100周年に寄せて
-工学部基礎教育センター設立の経緯と目的-
佐藤 眞久
サトウ マサヒサ
序章:私は1980年11月に教育学部数学教室に採用され、教育学部の専門科目と工学部の数学に関する基礎教育を担当していた。その後、大学の大綱化に伴い1998年に工学部に異動し2018年3月に定年退職した。従って、工学部100年の歴史に中で私は40年弱の歴史しか見ていない。しかし、この在職期間中工学部には何回となく大きな改革があった。それは、工学部は時代の変化に応じて社会が要請する人材や技術を的確かつ迅速に送り出すため、常に教育内容やシステム、それに伴った組織の改変をする必要があるからである。この種々の変革のうち本稿では2012年4月に設置された工学部基礎教育センターの理念と目的および設立までの経緯とその後の教育への具体的貢献について記録の意味も込めて書き記しておきたい。
工学部基礎教育としての数学の普遍性:このような変革が求められる工学部にあって、基礎教育として求められる数学の内容はこの100年がそうであったように、次の100年にあっても変わることはないであろう。20世紀以降、数学はそのあり方について明確な指針ができ、何をすることが数学か深い理解があり、それをベースに数学の教育がなされ、理学部でも教育学部でも数学科での教育課程に大きな差はない。工学部基礎課程の数学でも同様なことが言える。かつて、週に2コマ微分積分学の授業が行われていた時代は、工学部基礎課程の数学は教育学部での講義内容と大差無かった。ε-δ論法という極限の定義とその扱いが強く印象に残っている一昔前の卒業生は多いことであろう。基礎課程での数学の授業内容は何処の大学・学部でも同じであるとしても、その時々の学生の状況で授業の組み立てには違いがある。専門高校からの推薦入学の学生は普通高校と教わる学習内容が異なり、入学後に何らかの対応が必要である。また、文科省指導要領の改訂により、高校で多様な学びができるようになった反面、入学時の学生の基礎学力に大きな差が出るようになり、ある層を想定した授業では理解が難しい学生が出る一方、退屈する学生も出てくる。理解度に合わせた授業をするのがベストであるが、学科別の授業では対応が難しい。数学の普遍性からすると学科毎で基礎課程の数学の授業を行う必要はないので、これらの問題に対しては工学部全体で対応が可能なのである。このことが基礎教育センターの発足の根源にある。工学部で理想とする基礎課程の数学の授業を行うため、当初は数学センターという名称でこの構想を学部に提言した。これがどのような変遷を受けて基礎教育センターになったかを以下で述べていきたい。
数学センター構想: 先に述べたように1990年代以前の基礎課程の数学は教育学部が担当し、その後は工学部で担当することになった。教育学部で担当するメリットは、数学の普遍性の上に立ち授業を行うので、工学部の専門課程の授業で数学の内容がその分野独自の専門的見地で記載されていても一般から特殊へという流れで内容理解が容易にできる点である。一方、工学部で授業を担当するメリットは、学生の状況を的確に把握できることである。教務上や就職関係の指導を通じて、工学部での教育にまつわる希望等が直に把握でき、その為の対応が工学部内で執れることである。しかし、学科毎に基礎課程の数学の授業を行ったのでは、授業において基礎学力の幅が大きく違う学生への対処等、同じような対応を多大な労力を払い学科毎に行うことになり効率が悪く効果も限定的になる。そこで、両者のメリットを共に活かしより効率化するために、基礎課程の数学を担当する教員、特に教育学部から異動した数学を専門とする教員をセンター化して工学部共通として基礎課程の数学の教育にあたることが最良であると提言を行った。
基礎教育センター設立までとフィロス:この提案に対し、数学だけでなく物理と化学も併せて教育内容の統一化を図れないか委員会を作って検討することになった。しかし、物理や化学は数学と異なり統一的な内容で授業を行うことは難しいという結論に至った。その結果、数学のみ教育内容を統一することが課題として残った。折しもこの最中に工学部の大幅な改組が決まり、各教員は改組にあたって所属する学科を選べることになった。その流れを受けて2011年に基礎教育センターが設立された。数学センターとならなかったのは、数学関係以外に幾つかの役割を担ったことにある。例えば、化学実験の予算請求や運営の調整があった。さらに大きいことは、2009年-2012年文科省プロジェクト(学大将)の一貫で作られたフィロスの運営を引き継いだことである。フィロスは共創学習支援室とも呼ばれ、学生が自主的に勉強するスペースの提供に加えて、グループで自由に勉強し互いに教え合って自他の学力を高めて行くことを目的とすることが特徴である。広いスペースと多くのホワイトボードが用意されており、その上、引き継ぎ後は学生をサポートするために教員2人が数学・物理・化学の質問や学習相談に応じるようにした。フィロスについては2014年5月14日付朝日新聞で紹介されている。
基礎教育センターの役割:基礎教育センターでは学部運営上の役割も多く担っていたが、教育関係に絞って主なものを紹介する。まず、工学部の基礎課程の微分積分学を後に述べるプレイスメントテストをもとに学科の枠を越えて習熟度別クラス編成にした。学科を横断したクラス編成で授業を行ったのは当時としては画期的なことであり、改組で時間割の編成も新規に行われることも幸いして実現した。更に、プレイスメントテストは後に述べるように、文科省プロジェクトの一環として全学で実施できる体制ができたことも実現を後押した。なお、線形代数学は大学で初めて習うので習熟度別のクラス編成は取らなかった。専門高校卒業で微分積分学の授業を十分学習してない学生や基礎学力不足の学生は補習授業を含めて週2回の授業を行うことにした。更に、一年次に単位を落とすと二年次以降微分積分学の枠に専門科目が入り履修できず留年する可能性があるのと、基礎の基礎である微分積分学の学力不足は専門科目の授業の理解に大きな支障をきたすため、単位を落とした学生には前期終了後1週間集中講義を行い、後期開始直前に再度試験を行い合格すれば単位を出すことにした。この補習のために要点付き演習書を出版した。簡潔に要点を記載し例題と解答を充実させ、まず、この例題をなぞりながら解ける基礎問題、次に累問よりなる標準問題、少し考える発展問題、少々骨のある補充問題と段階的に解答することで理解が進む配置にした。線形代数学も同様の演習書を出版したが、この2つの演習書は文科省プロジェクトの事業として行ったこともあり他学部の先生方にも作成に協力頂いた。また、プロジェクトの事業としてeラーニング化され多くの大学で使われることになった。さらに、山梨大学工学部学生に対象を特化した微分積分学の教科書を出版した。この教科書は、根本思想としてニュートンの時代に遡った微分の考え方を取り入れている。この時代の感覚を取り入れることで、微分を分かりやすく感じて貰うことを主眼にした。微分可能な曲線(良い曲線)とは各部分が微小線分から成りたつ曲線で、微小線分を延長した直線が接線である。この微小線分の各軸方向の増分として微分(量)dx,dyを感覚的に捉えやすく導入した。この微分(量)dx,dyは直接分からないが、固定した点Aと曲線上の他の点Bを通る直線を考え、点Bを点Aに近づけることで接線を求めれば、その比dy/dxは求まる。そこから極限の必要性を説明し、平均変化率の極限を求める意味を解説している。ε-δ論法を通して極限を学習した世代では、いきなり極限が出現し何のためこのような議論が必要であるか戸惑った方も多かったであろう。こういった戸惑いが無いよう工学部学生向けに工夫し、抽象的な概念の羅列にならないようにしているのが特徴である。
文科省大学間共同教育推進事業(8大学連携):文科省プロジェクトについて既に話題が出てきているが、文科省大学間共同教育推進事業(8大学連携)が採択され2011-2015年の5年間に総額3億2千万円の助成を受けた。これが基礎教育センターの所期の目的を果たす上で大きな推進力となった。ここに至るまで少々遡ってみると、21世紀に入り教育の質保証の観点から文科省が進めたFD(ファカルティ・ディベロップメント)からの流れがある。この一環で大学から参加要請された放送大学の研修会でeラーニングの試行に参加する大学の募集があった。当時、私は出題した問題の解答の正誤に応じて次の問題を実力に応じて出題するシステムを考えていた。これに利用できるのでないかと早速参加を申し出て、詳細を話し合った結果、このシステム(ソロモン)とeラーニング教材を作成した千歳科学技術大学に直接使用について依頼することになった。このことがきっかけになり千歳科学技術大学を幹事校とする文科省プロジェクトの応募に加わることになり、採択後、山梨大学は数学の担当校となった。既にソロモンには高校の教科全てがeラーニング化されており、これを利用して2013年からこのe-ラーニング教材を用いて専門高校から合格した生徒に入学前教育を始めた。専門高校では教わらないが入学後は既知としている内容についてeラーニングで学習して貰うものである。当時はまだWiFiが一般的で無く通信環境が自宅にない生徒も多く、出身高校にPCの使用と各生徒に面倒を見る高校の教員を付けることを依頼した。この要望を受け入れて頂けるか心配したが、生徒の大学入学後のことを専門高校でも心配しており、好意的に受け止められ安堵した。8大学連携の事業として、入学直後に実施する基礎学力測定のためのプレイスメントテストの作成に取りかかった。山梨大学では数学を担当し、理系用文系用各4年分を作成した。なお、文科省プロジェクトとして、このプレースメントテストでは、英語、日本語、数学、学修観の4科目を入学式直前に全学で行った。本来はeラーニングで実施できるものであるが、多人数であるため問題を印刷しマークシート方式を採用した。先に記したように工学部ではこれを微分積分学の習熟度別クラス編成に利用した。次に、大学3年次生以上を対象とした到達度テストも作成し、大学卒に相応しい基礎学力があるか自己判定できるようにした。プレースメントテストおよび到達度テストでは、成績だけでなく何処を改善すべきか、どのような学習特性があるかについてのコメントを付け、学習の指針を立てる参考になるよう個票として渡した。また、学生の解答状況に応じた数学問題出題システムは千歳科学技術大学の教員と学生・院生の協力により完成し、これも全国の大学で利用でき、8大学連携事業の成果として所期の目的も達成できた。
数学研究拠点化構想:基礎教育センターが目指した目的は、これまで記したように、数学の専門家による工学部での教育貢献である。一方、大学の教員として研究への貢献は必然であり、大学に籍を置く最大の理由は研究である。しかし、理学部や教育学部数学教室のように広い専門分野の研究者を工学部で擁することはできない。そこで、同一分野で共同研究できる研究者を集約することが重要である。集約化により専門書が共有できたりと研究費の効率的使用を可能にし、複数のスタッフで国内外の研究者を招聘し国際研究集会を開催したりと、有利に研究費を獲得し国際的視野で研究を進めることも可能である。研究面では、このように研究拠点化することが研究環境を整え優秀な研究者を迎え入れ国際的な研究成果を挙げることに繋がる。工学部にあって工学の研究者には当然研究を強く求めるが、数学に関しては求めるものが教育に偏る傾向が見られる。新しい100年の始まりにあたって、研究面で国際的に活躍できる人材で工学教育に関心を持つ研究者を求め研究拠点化する意識を持って欲しい。これが今後100年さらに山梨大学工学部から優秀な学生を送り出し、研究面でも世界的な評価を受けることに繋がっていくと確信する。
2023年12月記
山梨大学名誉教授